不要なもの集め
2020/01/05
Facebookより
3ヶ月に1回くらいのスパンで定期的にやってくる、
「捨てたい欲」に襲われています。
服も靴もバッグも雑貨も家具も、なにもかもいらない!
いらないものが多すぎる。
(自分で集めたんだろ!って感じですがw)
普段、要らなくなったものはメルカリに出して
長く売れなかったものはNPO団体に寄付してます。
給食やワクチン・文房具に変換して
子供に還元してくれるような。
送料無料で承ってくれる団体もあるので
とっても助かります。
物理的になにかを手放すことで
心が開放される側面ってあるのかもしれませんね。
「手に入れたい欲」が掻き立てられるように
社会が回っているからか、ふと気づくと
身の回りがモノで溢れていて怖くなります。
時折冷静になって気づくんですよね。
私にはこんなに多くのモノは扱えないと。
より多くのモノを手に入れることで
より多くの幸福を感じられると
錯覚していたのかなって笑
ストレスに塗れてるときってそれに気づけない。
きっと脳が勝手に副交感神経を優位にさせようとして
「モノを買う」という簡単な方法に走らせてるんでしょう。
気をつけないとなぁと思います。
モノに扱われないように。
怒り
2020/01/10
Facebookより
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00049/?n_cid=nbponb_twbn
「怒りは社会を動かすエネルギーになる」
共感した。
現代は、怒りに不寛容だ。
なんの主張をするにせよ、笑顔と共に
明るいメッセージを発しないと
受け入れてもらえない。
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《twitter見てると毎日毎日なにかに怒っていて、しかもその怒りの内容が日替わりってヒトがけっこういて、そんなにいろんなことに毎日怒ってばかりいて、長い人生なのに健康大丈夫なのでしょうか。》
誰のツイートであるのかは、この際、たいした問題ではない。というのも、この種の、「他人の怒りを嘲笑する」タイプのつぶやきは、現代のSNS社会における最大多数の声でもあるからだ。
この種のつぶやきに「いいね」をつけることでやんわりとした支持を表明しているのは、「怒り」や「ギスギスしたもの言い」や「対抗的な言説」や「批判的な立場」を、内容の如何にかかわらず、「円満な人々による円滑なコミュニケーションをかき乱すノイズ」として排除しようとしている人々だ。
で、私の思うに、その人々は、自分のことを「上機嫌で、自足していて、あたりのやわらかい、上品で、裕福で、恵まれた」人間であるというふうに考えている人々でもある。今年の流行語で言えば、「上級国民」ということになるのかもしれない。
「ギスギスした人たちっていやですね」
「うーん。議論ばっかりしている界隈ってあたしちょっとNGかな」
「ものごとの良い面を見たいよね」
「そうだね。誰かの悪い面だとかなにかの欠点をあげつらう前に、共通のうれしいポイントを見つけたいよね」
「最低限ニコニコしてるってことが条件なんじゃないかな」
「うんうん」
「そうだよね。素敵になるためには素敵なことに敏感でなきゃね」
てな調子で無限にうなずきあっている人たちだけで、この世界が動かせるとは私は思っていない。
世界は、不満を持った人間や怒りを抱いた人間が突き回すことで、はじめて正常さを取り戻す。
エシカル消費
2020/01/26
Facebookより
https://esse-online.jp/interior/211189?display=b
キット3300円、送料こちら負担…
正直「う〜ん😅」と思ってしまった自分。
でも、よーく考えてみると…
コンビニで要らないお菓子買ったり
プチプラのコスメ買ったり
プチプラの洋服買ったり…
それだけで3000円くらいにはなってました(笑)
つまり
日頃無駄遣いしてるお金で 人の命が救える💡
断捨離もできる。環境負荷も減らせる。
一石三鳥なんですよね。
そう考えると、キットが途端に安く思えてきました☺️
何度かこういったサービスを使ったことが
ありますが、意外と手軽です!
ダンボールに必要書類と洋服etc詰めて送るだけ🚗
ヤマトに出荷依頼すれば家まで取りに来てくれます。
これらをただの一過性の流行にしないために
自分に何ができるだろう
口先だけになってないか?行動が伴っているか?
一つ一つの場面で立ち止まって
自問していきたいな と思います。
自分で自分を諦めない
#関ジャム ボイトレ回
2021/02/07鑑賞。
曲がりなりにも歌をやっていた身からすると、 #関ジャニ∞ の歌の伸び方は半端じゃなかった。歌い方には誰しもクセがある。クセを短期間で直すには指摘をそのまま受け止める心の強さと謙虚さ、体力、粘り強さetc、色んなものが必要。音楽を愛する気持ちも必要不可欠。加えて、彼らはあの短期間でクセを直すだけでなく新しい自分の声や音域、表現を獲得し自身の歌手性を拡張するまでに至っていた点もすばらしかった。
大倉くんが「自分たちの可能性を諦めなかった」と言っていたけれど、これは音楽以外でもすごく難しいこと。困難にぶつかれば「もうダメかもしれない、限界かもしれない」と思ってしまうのは自然な心の動き。自分一人じゃなくグループでの活動なら尚更。全員が同じ熱意を持っていないとグループは生まれ変われない。
#ゴスペラーズ 北山さんが感動して泣きそうになった気持ちがよくわかる。指摘をあんなに素直に受け止めて諦めず歌い続けることがどれだけ苦しいか。できない自分に向き合い続けることには勇気がいる。あまりにも大変で、歌自体が嫌いになりそうになることだってある。それでも彼らは諦めなかった。
これまで20年近くアイドルとして活動してきたのに自分のスタイルに変なプライドがなく、驕りがない点も素晴らしい。特にヤスくんはそれが如実に出ていた。ともすれば「全否定」ともとれる指摘を「もっと良くなれる」と受け止めレッスン以外の時間もひたむきに努力する姿勢に心打たれた。
私は数年間eighterをやっていたので、「ヨコヒナは歌苦手」「大倉くんが低音担当」なのは知っていた。これまでジャニーズの色んなグループを推してきた経験からこの役割はずっと固定だと思っていたのに。キャリア約20年にしてここを揺るがすとは、関ジャニ∞はやはりとんでもないメンバーの集まり(良い意味)。
すばるくんが「卒業」して心の整理が付けられなかったことと、音楽に向き合う姿勢が少し惰性っぽくなってきた(楽器は向上するが歌ダンスは現状維持)ことが原因で、2年前にeighterを辞めた。でも、今回のプロジェクトを見させていただき、大倉くんの歌にかける情熱、関ジャニ∞への愛に心揺さぶられた。
彼はまだ関ジャニ∞の「歌」を諦めていないのだ。長年リードボーカルを務めてきた2人が抜けても「俺らはこんなもん」と投げずに怠けずにスキルアップしようとしている。後輩のプロデュースもしながらの1年間のボイトレ、どれだけ大変だっただろう。それをやり遂げたことからも彼のファンに対する誠実さが伝わる。
ファンにお見せするなら、できる限りのものを届けたい。関ジャニ∞を諦めたくない。見てろよ。そんな、言うなれば「信念」に近いものを彼からは感じるのだ。実を言うと、私は関ジャニ∞の中で大倉くんが唯一苦手だった。冷たさを感じる瞬間があったからだ。しかしそれは彼の長所だったようだ。
彼は周囲や自分、状況を俯瞰で見る観察眼を持っている。さらに良い意味で感情を排除して物事に取り組むことができる。それが私の目には一時期「冷たさ」として映ることがあった。しかし今はそれを完全に彼の長所として認識できる。ならば、今や、eighterでない状態でいる理由が私にはない。
「自分で自分を諦めないで」というメッセージを届けてくれてありがとう。やっぱり関ジャニ∞に着いていきます。
P.S.TVerの見逃し配信めちゃくちゃ助かった!笑
配信を決めてくれたスタッフのみなさんにも謹んで感謝申し上げます🙇
音楽と小説
最近、好きな小説を読みながら
それに合う音楽を聴くのがマイブーム。
今のところひらめいたベストな組み合わせは、
+ Indigo la End 『濡れゆく私小説』。
よしもとばなな『哀しい予感』
+ Mrs. GREEN APPLE『Attitude』
または、くるり『Philharmonic or die』。
考えて考えて組み合わせるのではなくてあくまでも直感的に選ぶ。歌の情感はもちろんだけど、作者と小説家の持つ雰囲気がどこか似通っていることが望ましい。
常に鳴っている魂の音が同じひと。世界を同じ視点で切りとっているひと。生きる時のリズム感が同じひと。
「心」という、シャボンの泡をかき混ぜたようなふわふわの謎に満ちた空間から、泡に少しづつまみれながら特別なとんぼ玉を探し出すような。
そんな感覚で私は音楽を探し当てる。
「言葉や音の持つ力」なんてありふれた大きすぎる話題を語るつもりはないけれど、ひとから発せられるすべてのものはその人を表している。仕草、目線、体温もすべて。
そして私は無意識に、こんなにもそれを感じながら生きているのだと、この時間を通して気づくことができる。
さて、今日は誰を感じよう。
秋を忘れる
いくつもの秋を忘れた。
そのことを思い出した。
一月、冬 真っただ中。
本来なら雪がちらつく季節だというのに、きょうはあたたかい。
最高気温が19度。
いつもより薄めの生地、秋口から流行っているダルメシアン柄のロングスカートを、ひらひらさせて歩いてみる。お気に入りのスカートが履けるのはうれしいのだけどね。
そんなことを思いながら、9時から17時、きょうも派遣社員として働いた。
平日フルタイム。任される仕事は「派遣」の範疇だから、大して難しくもない。職場のみなさんもとても優しい。職場が家から遠いのがたまに疵だけど、それも慣れればなんてことない。
職場から駅に出ている直通のバスを待っていた。
この時間、夕空と対話するのが私の日課だ。
(きょうはふしぎな色の空だなぁ。
少し渋めのコーラルオレンジに、これまたシックなターコイズブルー…いや、グリーン?)
的確な表現を探して色の種類をググったけれど、ちょうどいいのが出てこない。空ってすごいな。
まぁそんな感じの絶妙な、そして複雑な色の空とちらちら目を合わせながら小説を読んでた。そしたら、さあっと風が吹いたのよ。
生ぬるいというほどあたたかくもなく、かといってしん、とするほど体に刺さる冷たさもない。
それは、秋の風だった。
その風は私の心をのっとって、
私に『秋』のことを考えさせた。
「彼に出会った頃の風だ!」
「大学生として、駆け回っていた頃の風だ!」
ちょっと泣けてくるような、懐かしくてやさしい風に、心はまるで子供のように喜びながら叫んでくれた。
でも、浮かんでくる思い出は極端に少なかった。
昨年は何をしていたっけ。
一昨年は?
そのまた前は…?
私は、毎年毎年、この『秋』を過ぎてきた。
24回も、ちゃんと『秋』を生きてきた。
それなのに覚えていない。
なんでだろう。なにかに一生懸命挑戦した、そんな思い出がないからかな。毎日が薄いのかな。強いて言えば毎年「生きること」だけはがんばっていた。その季節に、その季節ごとにしがみついて生きてきた。
でも。でもね、その思い出にぜんぜん愛着が湧かなくて。
こんな風に「なんだかよくわからないけど、見えない"いつか"に期待して生きることにしがみつきたい」、そんな現世への執着で、惰性で、私はずっと生きていくのか。なんて、ふと考えてしまう。
こんなことは誰でもたまには考えることかもしれない。だけど、私が恐ろしく思うのは、こうして考える回数が日に日に増え、スパンがどんどん短くなっていっていることだ。
今の暮らしも居心地はそれなりにいいけれど、未来を拓く時間もなく、自分に向き合う時間もなく、ううん、時間が無いと言い訳して、その勇気がないだけの自分を見ていないふりをして、優しいのか冷たいのかわからない他人に甘やかしてもらいながら、なんとか生きていくのかな。
私が「若く」いられるのは、長くてあと1〜2年。果たしてずっとそんなふうに生きていけるのかな。
答えはわかっている、誰に諭されなくとも。
でも、それを否定する自分がまたすぐに顔を出す。自分の出した答えを否定して、またそれを否定して、でもまたそれを否定して…堂々巡りのこの数年。迷ってばかりいるうちに、20代前半が終わろうとしている。
迷路のようなこの人生、抜け出せる日は来るのかな。
「命を終わらせる」
どうか、これ以外の方法で最適な解を見つけたい。
誰かに、この冬に、しがみつかずに。